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モーリス・ブーヴェ「女性の強迫神経症におけるペニス羨望の意識化の治療的影響」の日本語訳


あの観察のなかでは、女性患者とその夫との関係、分析家との関係、そして一般に他者たちとの関係を同一視することで——これは観察そのものによって否認されているのですが——結局、男性とのある競争関係が問題なのだ、と言われたわけですが、そうした意味でのペニス羨望に、すべてを還元してしまうことはできません。ファルスが現れるのが、こういう面からでないことは明らかです。(『無意識の形成物』下: 363頁)

「私がきちんとした身なりをしているとき〔=私がきれいな靴をはいているとき〕、男性たちは私を欲しがりますが、私は本当にとても喜んで、「ほらまた、むだ骨を折ろうとしている人たちがいるわ」と思います。私は、彼らがそれで苦しむかもしれないと想像して、満足します」(「対立の段階」

この女性患者は転移の練り上げの途中で〔…〕自分はファルスを持っているのだという想念を募らせ始めます。彼女が強調しているのは、衣服の形でそれを持ちたい、男性たちの欲望を刺激し、またそれのおかげで、彼女がはっきりそう言っているように、男性たちをやがて彼らの欲望において失望させることのできる、そうした衣服の形で、それを持ちたいということです。〔…〕このとき患者が明らかにしているのは、次のようなことです。つまり、彼女が、自分が持っていないのを完全に知っているものを持っているように見せたいと望むとき、そこで問題になっているのは、彼女にとってはまったく別の価値を持つ何かなのだ、ということです。私はこれを、仮装マスカラードの価値と呼びました。彼女はまさしく、自分の女性性を一つの仮面マスクにしています。

ファルスが彼女にとって欲望のシニフィアンであるということから、問題なのは、彼女がその外見を呈しているということ、彼女がそれであるように見えるということです。問題なのは、彼女が一つの欲望の対象であるということであり、彼女が自分でも、失望させることしかできないということがよく分かっているような、欲望の対象であるということです。〔…〕このことは、我々にいま一度、〈他者〉の欲望の対象である〔être〕ことと、そのマークを帯びている器官を持つ〔avoir〕か持たないかということの間に存する相違を示すものとなっています」(『無意識の形成物』下: 304–305頁)

男性の場合でも女性の場合でも、去勢の問題に対する解決は、ファルスを持つか持たないかというジレンマをめぐってのものではないということを、彼は理解していませんでした。というのも、主体がいずれにせよ認めなければならない一つのことがあり、それは彼がファルスでないということなのですが、主体がこのことに気づいたとき、つまり主体が分析において、ファルスでないことに気づいたときに初めて、主体は、それを持っていても持っていなくても、自分の自然的な立場を正常化することができるようになるからです。

まさにこうしたことが、我々の患者に起きるわけですが〔…〕、今日皆さんに引用してきたもののなかには、完全にそれと認めることができるような仕方で、靴の幻想が現れてきています」(『無意識の形成物』下: 304頁)

「私は靴の修理屋で靴を直してもらいました。それから、青、白、赤の紙ちょうちんで飾られた舞台の上に登りますが、そこにいるのは、みんな男です——私の母は人ごみのなかにいて、私に見とれています」(「対立の段階」

ファルスがある露出的な関係に関連しているのを、夢それ自体が示していますが、この露出的な関係は、ファルスを持っている者たち、彼女とともに舞台の上にいる他の男たちを前にして展開されるのではなく〔…〕母の前で展開されているのです。(『無意識の形成物』下: 382頁)

例えば、強迫症者のさまざまな壮挙〔exploits, 快挙・武勲・大手柄〕についてお話ししたことがありましたね。この壮挙とは何のことでしょうか。壮挙が存在するためには、少なくとも三人がいなければなりません。というのも、ひとはたった一人で壮挙を行うことはないからです。壮挙に類似した何かが存在するためには、つまり勝ち取られた成果が、「大活躍 sprint」が存在するためには、少なくとも二人がいなくてはなりません。それから、記録し、証人となる誰かが存在することも必要です。壮挙のなかで強迫症者が獲得しようとしているのは、まさしく、我々が先ほど 大文字の〈他者〉の許可と呼んでいたものです〔…〕。しかし、彼が獲得しようとしている満足は、彼がその許可に値している領域上に分類されることはまったくありません。

〔…〕その理由は、本当の危険が存在するところという意味での死が、彼が挑んでいるように見える敵対者のなかにではなく、まったく別のところにあるからです。それはまさしく、見えない証人の側、観客として存在する大文字の〈他者〉の側にあります。この観客は、中立の立場をとって、シュレーバーの妄想のなかのどこかにある表現を用いるならば、「まったく手ごわいウサギだ!」と主体に言うような観客なのです。この叫び、やられたということを示すこうしたやり方は、暗黙の、潜在的な、願望されたものとして、壮挙のあらゆる弁証法のなかにも見出されます。彼がはっきり見せている様子、貫禄、スポーツ、多かれ少なかれ冒された危険のさまざまな効果のなかに、実際にはいかなる種類の本質的な危険も存在しないのは、まさしく、彼がその人物の身になってみることができるからです。彼が自分の相手にしている他者とは、結局のところ、彼自身であるところの一人の他者にすぎません。そしてまた、この他者はつねに既に、彼がどのような側から物事を見ているのであれ、いずれにしても彼に棕櫚の葉〔勝利の栄冠〕を残しておいてくれます。

しかし、重要な人物とは、その前でこうしたことのすべてが生じるような大文字の〈他者〉です。どうしても守らなければならないのはこの〈他者〉であり、壮挙が記録され、その歴史が記入される場なのです。この地点は、どうしても保持されなければなりません。(『無意識の形成物』下: 250–252頁, 強調引用者)

母に対するルネの不満のこの激しさこそが、彼女が母に持っていた大きな愛情の証だった。彼女は、母が父より高い階層に属していると思っていた。母は父より頭がよいと思っており、とくに母のエネルギー、性格、決断力、威厳に魅了されていた。母が稀にくつろいでいたときには、彼女はいわく言い難い喜びで満たされていた。しかし、これまでのところ、母を所有したいというはっきりと性愛化された欲望は問題になっていない。ルネは母ともっぱらサド・マゾヒズム的な次元で結ばれていた。するとそこでは母娘の同盟関係が生まれ、ここできわめて厳格に働いたので、あらゆる契約違反が極端に激しい動きを引き起こした。これは最近に至るまで一度も対象化されることはなかった。この結合関係に介入してくるようないかなる者も、死の願望の対象となった。(「彼女の家族状況」

そこで、我々はこのような定式を手に入れます—— そもそもの欲望とは、「私は、彼女すなわち母が欲望するものでありたい」ということである。私がそれであるためには、私はさしあたり彼女の欲望の対象であるものを、破壊しなければなりません。

患者は、母の欲望であるところのものでありたいのです。治療においてこの患者が理解するように仕向けなければならないのは、男性はそれ自身においてこの欲望の対象であるわけではないこと、男性は、女性以上にファルスであるわけではないことです。その一方で、男性としての夫に対する攻撃性を作り上げているのは——このことは、次回にもっとよくお話しするつもりですが——彼女は夫がファルスである、夫がファルスを持っているのではなく、ファルスであると考えているということです。まさにこの資格において、夫は彼女の競争相手となり、彼女が夫との間に取り結ぶ関係は、強迫的な破壊によってしるしづけられているのです。

強迫症の構造の本質的な形態に従えば、この破壊の欲望は、彼女にはね返ってきます。治療の目標点は、彼女に、「あなたもまたファルスでありたいと望んでいる限り、あなた自身、あなたが破壊したいと望んでいるものになっているのです」ということに気づいてもらうことです。(『無意識の形成物』下: 305−306頁)